短章 その二
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美人と言えば女に限るようである。美醜は男をスペシファイする属性にならぬと見える。甘い辛いが絵の具の区別に役立たぬように。
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宅の前に風呂屋ができて、いろいろな迷惑を感ずることがある。しかし、どんな悪いことにでも何かしら善いことがある。第一には、宅へ始めて尋ねて来る人にはこの風呂屋の高い煙突を目当てにして来るように教えるとわかりが早い。それから、第二には夜の門前が明るくなって泥坊の徘徊には不便である。第三には、この風呂屋ができてから門前に近く新たに消火栓が設けられた。もっとも、これは近くに高官の邸宅があるおかげかもしれない。
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睡蓮の花は昔から知っている。しかし、この花が朝開いて午後に睡るということは、今年自分の家でつくってみて始めて知った。睡蓮という名の所由がやっとわかったのである。水蓮などという当て字をかく人のあるのを見ると、これは自分だけの迂闊でもないらしい。人間ののんきさかげんがこんなことからもわかる。しかしまた人間の世智辛さがこれでわかる、とも言われるであろう。
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三原山の投身者の記事が今日新聞紙上に跡を絶たない。よく聞いてみると、浅間山にもかなり多数の投身者があるそうであるが、このほうは新聞に出ない。ジャーナリズムという現象の一例である。
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「陸相官邸にて割腹」という大きな見出しの新聞記事がある。陸相が割腹したのかと思うと、陸相の官邸でだれかが割腹したのである。日本語の不完全を巧みに利用したジャーナリズムのトリックである。
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夜中に眼が覚めた。どこかで「デンポー、デンポー」と言っているらしい声が聞こえる。それから五分もたつとまた同じような声が聞こえる。あまり長い間をおいてしばしば繰り返されるから不思議だと思って注意していると数町さきの通りを通る自動車の「ブ、ブー」という警笛が聞こえる。さっきの「デンポー」はやはり自動車の警笛であった。笛のうちには音色がかなり人声に似たのがあると見える。
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犬吠岬の茶店の主人の話だそうである。三十年来の経験で、自殺者心中者はたいてい様子でわかる。思案にくれて懊悩しているようなのはかえって死なない。写真でも撮らせたり、ひどく元気よくはしゃいでいるのが怪しいということである。いったい死ぬほどに意気銷沈したものなら首くくりの縄を懸けるさえ大儀な気がしそうである。それをわざわざ遠く出かけて、しかも三原や浅間に山登りをする元気があるのは不思議なような気がする。こういう種類の自殺者は、悲観のためではなくてみんな興奮のために死ぬるのだろうと思われる。
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第一相互館の屋上で夜の銀座をながめていたら、突然停電で屋上はまっ闇になり、同時に銀座の両側の街燈も消えたが、街壁を飾るネオンサインはみんな平気でともっていた。しばらくして、街燈が一度にともったが、自分らのいる屋上はまだまっ暗であった。そうして楼下の町でまずぱっと明るさが増して、しばらくしてからやっと屋上が点燈した。人間の中風のメカニズムを想い出すのであった。
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電話が自働式に変わると同時に所属局が「小石川」から「大塚」に移り、さらにまた番号がもとより三〇〇〇だけ数を増した。なんだか自分のうちが遠い所へ持って行かれたような気がする。居は心を移すというが、心は居を移すとも言われそうである。
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去年の秋手賀沼までドライヴしたついでに大利根の新橋まで行ってみた。利根川の河幅はこの橋の上流の所で著しく膨大して幅二キロメートル半ほどの沼地になっている。それにただ一面に穂芒が茂り連なって見渡す限り銀色の漣波をたたえていた。実にのびのびと大きな景色である。橋のたもとの土手を下りて見上げると、この長さ一キロメートルのまっすぐなコンクリートの橋の下にそれと並行して下流の鉄道の鉄橋が見え、おりから通りかかった上り列車が玩具の汽車ででもあるように思われた。
今までいっこう聞いたこともないこんな所にこんな絶景があると思うことはここに限らずしばしばある。そういう所はしかしたいてい絵にかいても絵にならず、写真をとってもしようのないようなところである。有名な名所になるための資格が欠けているのである。
こういう所の美しさは純粋な空間の美しさである。それは空虚な空間ではなくて、人間にいちばんだいじな酸素と窒素の混合物で充填され、そうしてあらゆる膠質的浮游物で象嵌された空間の美しさである。肺臓いっぱいに自由に呼吸することのできる空気の無尽蔵の美しさなのである。
往復ともに小菅の刑務所のそばを通った。刑務所の独房の中の数立方メートルに固く限られた空間を想像してみたときに、この大利根河畔の空間の美しさがいっそう強烈に味わわれるような気がするのであった。
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昨年九月の暴風雨で東京の街路樹がだいぶいじめられた。たぶんいわゆる「塩風」であったためか、樹々の南側の葉が焦げたように黒褐色に縮れ上がって、みじめに見すぼらしい光景を呈していた。丸の内の街路の鈴懸の樹のこの惨状を実見したあとで帝劇へ行って二階の休憩室の窓からお堀の向こう側の石崖の上に並んだ黒松をながめてびっくりした。これらの松の針葉はあの塩風にもまれてもちっとも痛まないばかりかかえってこの嵐に会って塵埃を洗い落とされでもしたのか、ブラシでもかけたかと思うようにその濃緑の色を新鮮にして午後の太陽に照らされて輝いているように思われた。
日本の海岸になぜ黒松が多いかというわけがはじめてはっきりわかったような気がしたのであった。
国々にそれぞれ昔から固有なものにはやはりそれぞれにそれだけのあるべき理由があるのである。
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昭和九年の十一月中旬には東京の丸の内のところどころの柳が青々として風になびいていた。その一方で銀杏はもうすっかりその黄葉をふるい落としているのであった。
十月には武蔵野のどこかで桜が返り咲きに満開したそうである。十一月二十五日になってもまだ庭のカンナが咲き続けていた。
植物でも季節の変調にだまされやすいのとそうでないのとあるらしい。
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夏目先生のお弟子と見られている人がかなりおおぜいいるようである。この「お弟子」の意味がずいぶん漠然としていて自分にはよくわからない。少し厳密に分類するとこの「お弟子」の種類が相当たくさんにありそうである。古いほうでは松山の中学校で先生から英語を教わった人たちがある。その中でそれっきりもう直接には先生と交渉を失った人々もやはり弟子の一種である。またそうした人たちの中で後になって再び先生と密接な交渉をもつようになった人の中でもMN君のようにあらゆる意味で師事した人もあれば、またMB氏のように医師として接触した人もある。それからまた熊本高等学校時代に英語を教わった人々、その中で自分などのように俳句をも教わったために先生の私邸に出入することのできた果報ものもある。もしかすると逆に出入するために俳句を教わったのではないかという嫌疑もなくはない。また先生の家に食客となって日常親しく先生の人に接近することのできた幸運の人たちもある。次には先生の東京時代に一高や大学で英語英文学を教わった広い意味での弟子たちがある。その中で先生の千駄木町時代にその門に出入した人たちがある。一方では英文学科以外の学生でそのころの先生の門下に参じた人もあるかと思われる。
千駄木時代は先生の有名になり始めからだいたい有名になりきるまでの時代で、作品から言っても「猫」から「虞美人草」へかけての時代である。このころの先生にひきつけられて先生の膝下に慕い寄ったお弟子にはやはりそれだけの特徴がありはしないかと思われる。短い西片町時代を経て最後の早稲田時代になると、もう文豪としての位地の確定した時代で、作品も前とはだいぶちがった調子のものになってしまっていた。この時代に新たに門下に参じた人々の中には千駄木時代の先生の要素に傾倒した人とまたこの時代の先生の新しい要素に牽引された人とがあって、それぞれちがった特色をもっているのではないかと想像される。しかし具体的の分類をしろと言われるとやはりむつかしい。
それはとにかく先生の芸術なりまたその芸術の父なる先生の人に吸引されてしばしばその門に出入した人々を「お弟子」と名づけることになっているようである。しかしこの上記の定義は実ははなはだ不完全であるかと思われる。たとえば故○○君のごとく先生に傾倒して毎週ほとんど欠かさず出入りして、そうして先生の揮毫を見守っていた人が、やはり普通の意味でお弟子と言われるかどうか疑問である。そのほかにも始終先生に接していながら先生からどれだけの精神的影響を受けたかということがわかりにくい人もあるかもしれない。反対に先生に接しないでただその作品だけから異常に強い影響を受けている人もたくさんあるかもしれない。こうなると何がお弟子で何がお弟子でないかわからなくなってしまう。
しかし、どんな人でも先生に接して後のその人を見て、もし先生に接しなかったとした場合のその人を推察することは不可能であるから、先生の影響が無いなどとは言われないわけである。してみると結局「お弟子」の定義には証明の可能な「門戸出入」の頻度を標準とするのが唯一の「実証的」な根拠なのであろう。
もし何かの訴訟事件でも起こって甲某が先生の弟子であったか、なかったかという事が問題になったとしたら――そんなことがありうるかどうかは知らないが――その時にはやはりこの「実証」以外に何物も物を言わないであろうと思う。
お弟子の名もはかないものである。
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震災や火災や風水害に関する科学的常識とこれに対する平生の心得といったようなものを小学校の教科書に入れるということは、日本のような国では実に必要なことである。これはほとんど「問題にならぬ」ほど明白なことであると思われるのに、これがどういうわけだかいっこうに実行されていないで時々「問題になる」ようである。
自分の想像するところでは、結局教科書を編纂する機関の中に科学的な頭脳とその主動的な要素が欠除しているのではないかと思われる。もしかこの想像がいくぶんでも当たっているとしたら、はなはだ逆説的な言い分ではあるが、小学生を教える前にまず文部省を教育しなければならないのだとも言われるかもしれない。
小学教科書の編纂にはやはり単に文科方面のみならずあらゆる主要な自然科学の各部門からの代表者を集めて資料選択の任に当たらせる必要があるかと思われる。
多くの人の見るところでは、小学の教科書には忠良なる文化的日本人として一生知らなくてもたいしてさしつかえのないような事項が数々ある一方で、知らなくてはならないとわれわれに思われる事で書いてないことがたくさんあるようである。
たとえば手近なところで震災火災風災に対する科学的常識とか、細かいことではたとえば揮発油取り扱いの注意とか、誤って頭を打撲したときの手当とかいうものは万人必要の知識であるが自分の知る限り少なくも十分には取り扱われていない。
I博士の言うところを無断で借用すれば、ドリアンという臭くてうまいくだもののことなど知らなくても日本人の一分は立つのである。またこうした種類の知識は心がけのある児童で後日そういう知識を必要とするような階級になるべき素質をもったものなら教科書で教わらなくても雑誌などからいくらでも覚えるであろうし、また、一生そんな知識を要しないような階級の子供ならせっかく教科書で骨折って教えてもおそらく三年たたない間にきれいに忘れてしまいそうに思われる。
児童教育より前にやはりおとなであるところの教育者ならびに教育の事をつかさどる為政者を教育するのが肝要かもしれない。
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学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をするととかく講義がむつかしくなりやすい。これにはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。
若い学者が研究論文を書くと、とかくひとり合点で説明を省略し過ぎて、人がよむとわかりにくいものにしてしまう場合が多い。これもいろいろの理由があるが、一つには自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の水準を高く見積もり過ぎるためもあるらしい。
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昭和九年の秋英人スコットの乗った飛行機が英国と濠州メルボルンとの間をたった七十一時間で飛び渡った。
その目ざましい成効の報知がわが国に伝わった晩にちょうど日本の東京のJOAKで文士の航空に関する座談会というのが放送された。それは先日新聞社の催しで数名の知名の文士を北半日本のリレー飛行に搭乗させた、そのときの感想を話し合わさせるという趣向なのである。
いずれも生まれて初めて飛行機に乗って珍しく感じたことを談り合ってそれを全国の聴取者に聞かせるのである。
世界地図をあけてスコットの飛んだ距離と、これらの日本の文士の一人ずつが飛んだ距離とを比べてみたときに、なんとなく多少の皮肉な感じを起こさないわけには行かなかった。
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上野公園の一隅にある鉄筋コンクリートの建物の中で時々科学者が寄り集まって事務的な相談会を開くことがある。事務は事務だがともかくもむつかしい学問に関係した人事の相談である。寄り合う人々はみんなまじめな浮世離れのした中年以上の学者ばかりである。こういう会が朝の十時ごろから始まって昼飯時一時間の休憩があるだけで午後六時ごろまでもぶっ通しに続くことも珍しくない。
こういうときに、会が終わってほっとした気持ちで外へ出て、そうして連れに別れて一人でぶらぶら公園を歩いていると、いつも見飽きるほど見馴れた公園の森や草木が今までかつて見たことのないように異常に美しく見え、また行き通りの人々の顔が実に楽しく喜ばしそうに見え、そうして特に女子供がたとえようもなく美しく愛らしく見えてくる。今まで堅く冷たくすっかり凍結していた自分の中の人間らしい血潮が急に雪解けのように解けて流れて全身をめぐり始めるような気がするのである。
学者であって、しかも同時に人間であることがいかにむつかしいものかということをつくづく考えさせられるのは、そういう時である。
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血液の化学成分は驚くべき精密さをもって恒同に保たれている。ちょっと労働でもして血液中の水素イオン濃度がわずかに一億分一だけ増すとすぐ呼吸が忙しくなって血液中の炭酸ガスを洗滌させる。
人間の社会もこのくらい有機的になって、全系統の生理に有害なものを自働的に駆逐するような機巧が具わっているといいと思う。
現在でもある程度まではすでにそうなっているかもしれない。しかしこの調節作用を阻害するような病気があまりに多く、それに対する抵抗力があまりに弱いのではないかと思われる。
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ある日電車で新宿の通りを通過しながら街路をながめていると、両側の人道にほとんど軒並みに同じような建て札が立ち並んでいる。見るとそれには区会議員か何かの候補者の名前が書いてある。小さな張り板ぐらいの恰好の木枠に白紙を貼って、それに筆太に墨黒々と「原野九郎」とか「小菅雷三」とか「不破伊勢次」とかそういった感じのする名前が書きひけらかしてある。
その建て札に交じってまたところどころこれとよく似てはいるが少し風変わりな建て札が見える。それには「よせ鍋はま鍋」「蒲焼三十銭」「○○大特売大安売り」などという文句が読まれる。
建て札が同型であるという事実の裏にはその建て札の内容にも若干の共通点があるという事を暗示するのではないかという気がした。
どちらも「売り物」である。そうしてどちらにも用心しないと喰わせ物があるかもしれない。
食物や商品のいかものが市民に及ぼす害毒は、腐敗した議員たちのそれに比べたらそれほどでもないであろう。
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元素には今では原子番号数というものができて、何番の元素と言えばそれで事柄は完全に確定する。それだのに今でも科学者はやはり水素とか酸素とかテルリウムとかウラニウムとか、言わば一種の「源氏名」のようなものをつけて平気でそれを使っているのである。人間味をできるだけ脱却しよう、すべての記載をできるだけ数学的抽象的なものにしようという清教徒的科学者の捨てようとしてやはり捨て切れない煩悩の悲哀がこういうところにも認められるであろう。
科学といえども人間の産んだ愛児の中の愛児である。血の気を絞り取ってしまったら乾干しになって、孫を産む活力などは亡くなってしまいはしないかという気がする。
それはとにかく、元素の名前に「桐壺」「箒木」などというのをつけてひとりで喜んでいる変わった男も若干はあってもおもしろいではないかと思うことがある。しかしもしそんなのがあったらさぞや大学教授たちに怒られることであろう。
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自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにいないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡われるせいではないかと思われる。
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髪を短くしている人は大概髪を延ばすと醜くなるようなたちの人だと床屋が言う。それはそういう場合もあるかもしれないが、またそうでない場合があるかもしれない。
いつもとりすました顔をしている女は、たぶんすましたときのほうがいちばん美しく見えるような型であり、始終笑顔を見せている女は、やはりそうしたほうがすましているより美しく見えるような型の顔であるかもしれない。少なくも当人がそう信じていることだけは慥かであろうと思われる。
めいめいで口をきいてめいめいの意見を吐露すべき会合の席上でいつでも黙々として始めからおしまいまで口を利かない人がある。もしかするとそれは口をきくと自分の美と尊厳をそこなうことを恐れる人ではないかという気がする。またこれと反対にいわゆる一言居士と称するのもある。これはもちろん自分の一言の真と美を信ずるからのことであろう。しかし、自分の「我」に固執する点ではどちらも似たものである。
公人としての会議ではやはり公の問題そのものの前に自分の私を忘れるべきであろう。「顔」を気にする女の場合とはちがうと思われる。
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猫の尻尾は猫の感情の動きに応じてさまざまの位置形状運動を示す。よく観察していると、どういう場合にどんな恰好をするかということはいくらかわかって来る。しかし、尻尾のないわれわれ人間には猫の「尻尾の気持ち」を想像することは困難である。舌で舐めたり後脚で掻いたりする気持ちはおおよそ想像してみることができても尻尾の振りごこちや曲げごこちは夢想することもできない。従ってわれわれは猫の尻尾の行動について「批評」する資格を持ち合わせない。
科学の研究に体験をもたない言わばただの「科学学者」の科学論には往々人間の書いた「猫の尻尾論」のようなのがあるのも誠にやむを得ない次第であろう。
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昭和九年十月十四日、風邪をひいて二階で寝ていた。障子のガラス越しに見える秋晴れの空を蜻蛉の群れが引っ切りなしにだいたい南から北の方向に飛んで行く。よく見るとほとんど皆二匹ずつタンデム式につながったもので、孤独な飛行者はきわめてまれである。おそらく二十分ぐらいの間この群飛がつづいたので、数にしたらおそらく莫大なものであろうと思われた。ちょっと見積もっても数千という数であろうと思われる。
この群れはどこの池沼で発生して、そうしてどこを目ざして移住するのか。目的地の方向を何で探知するか。渡り鳥の場合にでも解釈のつきにくいこれらの問題はこのいっそう智能の低い昆虫の場合にはいっそうわかりにくそうである。
二匹ずつつながっているのが、それぞれ雌雄のひとつがいだとすると、彼らの婿選み嫁選みがいかにして行なわれるか。雌雄の数が同一でない場合に配偶者をもとめそこねた落伍者の運命はどうなるか。
こうした問題が徹底的に解かれるまでは人間の社会学にもまだどんな大穴が残され忘れられているかもしれないであろう。
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省線電車渋谷駅の人気者であった「忠犬」の八公が死んだ。生前から駅前に建立されていたこの犬の銅像は手向の花環に埋もれていた。
たかが犬一匹にこのお祭り騒ぎはにがにがしい事だと言ってむきになって腹を立てる人もあった。
しかし、これがにがにがしければすべての「宗教」はやはりにがにがしく腹立たしいものでなければならない。
ある日上野の科学博物館裏を通ったら、隣の帝国学士院の裏庭で大きな白犬の写真を撮っていた。犬がちっとも動かないでいつまでもじっとしておとなしくカメラのほうを見つめている、と思ったら、そばに立っていた人がひょいとその胴をかかえて持ち上げ、二、三歩前のほうへ位置を変えたのでそれが剥製だとわかった。写真師のそばに中年の婦人が一人立っていた。片手を頬にあてたままじっと犬のほうを見ていた。
翌朝新聞を見るとこの犬の写真が出ていた。やはりそれが八公であったのである。
この剥製の写真を撮っている光景を見たときにはやはり自分の胸の中にしまい忘れてあった「宗教」がちょっと顔を出した。
(昭和十年六月十二日)
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親がつけてくれた名が気に入らなくなって改名する人がある。姓名判断という迷信的な俗説を信じて改名するのはまた別であるが、そうでなくて改名する人にはおのずから共通な性質があるような気がする。あえて弱点というほどではないがとにかく若干の人のよさがあるような気がする。
自分の知った人で非常に珍しい姓があった。おまけに名まで変っているのであったが、その人は快活で無頓着な性質で自分の姓名の変なことなど意に介しないように見えた。ところがその人の子供が小学校へはいるころになって重大な問題がその名字にからんで起こって来た、と言うのは、その子が学校でみんなにその名前をからかわれ笑われるのをひどく気にして学校がいやになり気持ちがだんだんひがんで来た。そうして、そのためだかどうだか、そこまではだれにもわからないが、とにかくまもなく病死してしまった。その後その子の父は郷里へ帰って家系に関する徹底的の調査をして、何かしら適当の理由らしいものを捜し出し、それを申し立ててやっとの事で革姓の手続きを済ますことができた。
これで思い出すのは、昔紅葉山人の書いた何かの小品の中に、物好きな父親がその女の子におさるという名をつけた話があったように思う。妙齢になってしかも人並みすぐれて美しい娘を父親が人前でおさるおさると呼び立てた、というのである。その結果がどうなったかは忘れてしまった。
電車の運転手や車掌には実際変った姓名が多いようである。しかし、これが、異った姓名の人は車掌や運転手になる確率が多いという証拠にはならない。たとえば一方には車掌運転手の名簿、一方には帝国大学生の名簿を置いて比較統計を取ってみなければならない。しかしそうなると「変った姓」と「変っていない姓」とを分類する標準が非常にむつかしくなってちょっと手がつけにくい仕事になるであろうと思われる。
しかし、変った姓はしかたがないとして、断然変った名の持ち主百人と、常識的にちっとも変っていないと判断される名の持ち主百人とを選び出して、その当人は問題とせず、それらの人々の父親について、その社会的地位階級、教育の程度、趣味の品別等について統計してみたら、あるいは多少の差別が認められはしないかという気がする。
もし多少でもそうであったとしたら、父の差別が子の差別に多少でも反映していないとも限らないと考えられるのである。